Claudio Ishikawa:Biografia


生い立ち

クラウジオ石川は1958年11月、サンパウロ州サンパウロ市で日系ブラジル人3世として誕生した。

日系1世の母方の祖父母は、ブラジルで生まれたクラウジオの母とその兄を連れ、第二次世界大戦が始まる前に日本へ帰国、終戦後にブラジルへ戻った。母は学校教育を戦時下の日本で受けたため、クラウジオによれば「2世なのに日本人より日本的」だった。

ブラジルでは大抵の日系人はコミュニティが保つ日本文化の中で生まれ育ち、サンバを演奏するようなアフリカ系文化の場所へは近寄らないよう躾けられた。そのため日本の歌は知っているがボサノバはわからない、和太鼓は叩けるがサンバの打楽器は知らない日系人も多い。しかしクラウジオは母親の日本的な部分に反発し「自分は日本人じゃない、ブラジル人だ!」と考え、できるだけ日本人がいない場所へ行きたいと願った。

一方、日系人は日系コミュニティの外では「ジャパ、ジャパ!」(*1)と蔑称で呼ばれることもあった。クラウジオは当時の人種差別について「『ヘイ、ジャパ!』と呼びかけられると、自分が物みたいに扱われている気がして、差別されていると感じた。同じようにアフリカ系の人たちも『ヘイ、ニグ!』(*2)と呼ばれ差別されているのを見て、無意識に彼らにシンパシーを感じていたかも知れない」と振り返る。

1)ジャパ(Japa):ブラジルでの日本人の蔑称。英語のジャップ(Jap)に同じ。
2)ニグ(nego):ブラジルでの黒人男性に対する蔑称。ネゴとも発音。女性はネガ(nega)。ネーグロ(negro)の類語。英語のニガー(nigger)に同じ。クラウジオによれば「肌の色を指す単語はサンバの歌詞にも頻繁に登場するが、当事者以外の使用は蔑称となる恐れがある。特に”negro” “nego”の使用は強烈な差別になり得る。慎重さと注意が必要」。

サンバとの出逢い

10歳の頃、サッカーが大好きだったクラウジオはコリンチャンス(*3)を見るためにサンパウロ市内のスタジアム(*4)を訪れた。コリンチャンスが試合に勝利すると、スタジアムから熱気にあふれた応援団ガヴィオインス(*5)が繰り出し、隣の大きな広場(*6)で演奏を始めた。彼らのバトゥカーダ(打楽器演奏)にすっかり心を奪われてしまったクラウジオは、木の枝をバチの代わりに手に持ち、他の子どもたちと一緒に演奏の真似をした。

家から少し遠いこの場所へ両親に内緒で通いだし、1年ほど経つと楽器を叩かせてもらえるようになった。日系人の子供はサンバのコミュニティでは稀だったが、ガヴィオインスへ参加するにはコリンチャンスとサンバへの愛があれば十分だった。しかし上手く叩けなければすぐに止めさせられてしまう。この厳しい体験がクラウジオの身体へ否応なしにサンバのリズムを刻みつけた。

彼が最初に叩いた楽器は薄くて軽かったマラカシェッタ(*7)だった。スルド(*8)は子供の身体には大きく重量があり過ぎた。当時はサンバチームに特化した打楽器をメーカー作り始める前で、太鼓は吹奏楽バンド向けだった。ヘッドもプラスチックや合皮製ではなく全て本皮だった。大人たちがヘッドを火にあててチューニング(*9)できるよう、捨てられた木箱の板(*10)を拾い集め火を焚くのが子供たちの役割だった。

ガヴィオインスには名門ヴァイ-ヴァイ(*11)を始め、様々なサンバチームのメンバーが参加していた。クラウジオが少年から青年になるまで過ごした時代は、まだサンパウロのサンバカーニバルへ出場しておらず、本格的なサンバチームではなかった。彼によれば「ただただコリンチャンスを応援し、サンバを楽しんでいて、純粋だった」。

ガヴィオインスは次第にサンバカーニバル出場を目指すようになり、ヴァイ-ヴァイのメンバーから指導を仰ぎ、1974年に初めてサンパウロのサンバカーニバルへ出場、翌1975年にはブロコ(*12)部門で優勝を果たした。コリンチャンス応援とサンバカーニバル出場の両面で活動するようになると、クラウジオは「もう純粋に楽しんでいた頃のサンバではない」と感じ始めた。

高校時代に年上の知人に感化されてマルクスの『資本論』など共産主義や社会主義の本を読み耽り、大学生になると軍事政権に抵抗する学生運動にも参加していたクラウジオは、商業主義化したサンバカーニバルとサンバチームの現実に失望し、ガヴィオインスから離れて行った。20歳の頃だった。

クラウジオはサンバチームの商業化について、こう評している「サンバカーニバルのパレードがテレビ中継されるようになると、庶民的な祭りがショービジネスに変貌し、お金が動くようになった。サンバチームのオーナーがお金を懐に入れ、メンバーには入らないこともあった。お金と無関係な時代はサンバをする人たちは貧しかったが、文化として純粋だった。スポンサーがつきお金になりだすと生活は楽になったが、純粋さは失われた。誰もがプロのミュージシャンを目指し始め、演奏レベルは向上した。残念な部分と良くなった部分がある」。

3)SCコリンチャンス・パウリスタ(Sport Club Corinthians Paulista):サンパウロを本拠地とし、ブラジルの1部リーグ(セリエA)に属するサッカーチーム。
4)エスタジオ・ド・パカエンブー(Estádio do Pacaembu):1950年開催のワールドカップ・ブラジル大会のためにサンパウロ市中心部に建設された市営スタジアム。2014年FIFAワールドカップ開催に伴いアレーナ・デ・サンパウロ (Arena de São Paulo)=別名アレーナ・コリンチャンス(Arena Corinthians)=2020年9月以降名称ネオ・キミカ・アレーナ(Neo Química Arena)が建設されるまで、コリンチャンスの試合に利用された。正式名称エスタジオ・ムニシパウ・パウロ・マシャド・デ・カルヴァーリョ(Estádio Municipal Paulo Machado de Carvalho)。
5)ガヴィオインス・ダ・フィエウ・トルシーダ(Gaviões da Fiel Torcida):コリンチャンスの応援団で、サンバチームとしても活動するグループ。
6)プラザ・シャルレス・ミラー(Plaza Charles Miller):エスタジオ・ド・パカエンブーに隣接する広大な広場。
7)マラカシェッタ(Malacacheta):サンバで演奏される、スネアドラムに似た小太鼓の一種。総称は カイシャ(Caixa)。
8)スルド(Surdo):サンバで演奏される両面で低音の大太鼓。
9)本皮製の太鼓のヘッドは乾燥させると表面張力が高まりピッチが高くなるので、火に当ててチューニングしていた。
10)段ボール箱が登場する以前、木箱が梱包の主流だった。
11)ヴァイ-ヴァイ(Vai-Vai):正式名称Grêmio Recreativo Cultural Social Escola de Samba VAI-VAI。サンパウロのサンバカーニバルで優勝を重ねている有力サンバチーム。
12)ブロコ(Bloco):サンバカーニバルへ出場可能なサンバチームの形態で、エスコーラ・ヂ・サンバ(Escola de Samba)よりも小規模な集団のこと。

ブラックミュージック専門中古LP店を経営

クラウジオはサンパウロ大学(*13)で歴史と社会学を学んでいたが、中退して1980年代初めに小さな文房具店を開いた。しかしブラジル経済を襲った激しいインフレーションに巻き込まれ、彼によれば「政府が突然過激な経済計画(*14)を打ち出し、個人も会社も銀行口座から1日当り決められた額(日本円で5,000円程度)しか引き出せない状態」になり長く続かなかった。ブラジルでは倒産が相次いだ。

友人のアドバイスを得てサンパウロ市内にリサイクルショップ「ヴィトリーニ・パウリスタ」(*15)を開き、これは軌道に乗った。中古の家具や電気製品、洋服などを扱っていたが、音楽好きなクラウジオがLPレコードに力を入れると顧客が集まり、ジャンルも絞られ、自然にブラックミュージック(*16)専門の中古LP店になった。

インディーズレーベルの新譜にも手を伸ばし、ブラジルのブラックミュージックのインディーズレーベルを集めたカタログを作り、営業もした。若者のラップをプロデュースしたレーベル「Hip Hop Brasil」を主宰してLPも出した。

平日は店、土日はイベントで営業して休みなく働いたが、1990年代にLPが衰退しCDが主流になると経営がつまずいた。クラウジオの店に通っていた顧客は高価なCDに手が届かなかったのだ。時代の流れに逆らえず、店を畳むことになった。

1995年、37歳のクラウジオは日本で仕事をしていた弟を頼って来日する。

13)サンパウロ大学(Universidade de São Paulo)
14)プラノ・クルサード(O Plano Cruzado):クルザード・プラン。1986年2月に当時のサルネイ大統領が採用した経済計画。失敗に終わった。
15)ヴィトリーニ・パウリスタ(Vitrine Paulista):「サンパウロのショーケース」を意味する。
16)クラウジオによれば「ブラジルのブラックミュージックはサンバ、ラップ、ヒップホップ、ファンク」。


執筆者 autora:うらん Uran Caracol
2021年2月16日(火)

1995年以降(来日後)については後日、追記予定です。
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